日本分断
第一章「境界線の朝」
東亀二郎は、朝刊の校了時間を終えても、まだパソコンの前に座っていた。東京湾岸に新設された「東日本政府首都区報道センター」のガラス張りの高層ビル。下を見下ろせば、首都高の湾岸線に沿って、巨大なスローガン掲示板が光っていた。
「未来志向で、効率第一。東日本政府株式会社。」
彼は鼻で笑った。
“株式会社国家”――。それがこの国の分割を正当化するスローガンだった。分割からちょうど7年目、旧日本は東と西に完全に別れ、それぞれ独自の法律、通貨、軍隊、そして理念を持つようになった。効率を追い求める東と、人を守る福祉を重視する西。
東亀二郎は、その分割の瞬間を報じた記者の一人だった。
そんな彼の机の上に、昨晩の留守電のメッセージが残っていた。
「――ジロウ、久しぶりだな。オレだ、西鶴だ。西の統合福祉構想、動き出す。今度はお前の出番かもしれん。話がある、福岡で待ってる。」
西鶴太郎。かつては同じ町の同じ教室で笑い合っていた幼馴染。今では西日本政府の政策を握る中心人物であり、東からすれば“もう一つの政府の中枢”だ。
「東と西は、もう完全に違う国だ」と言われて久しいが、亀二郎にとって鶴太郎はただの“友”だった。
二人が再び出会うとき、何が変わり、何が守られ、何が壊れるのか――。
そしてその視線の先に、この二つの国の未来がある。
第二章「西へ向かう新幹線」
東亀二郎は、久しぶりに東京湾の朝焼けを背に、品川駅から「西日本政府圏」直通の特別便に乗った。
「新東海道超特急・相互通行レーン」──分割直後に設けられた、唯一の“越境認可ルート”。国境にあたる愛知県境で検問があり、そこを越えると車内放送の言語設定すら変わる。
「ご乗車ありがとうございます。本列車は、西日本政府圏・福岡特区まで直通運転いたします……」
機械音声のトーンが少し柔らかくなる。それは政府が変わった証のようだった。
車窓からは、かつて一つだった国土が滑るように後ろへ流れていった。岐阜・名古屋・関ヶ原――かつての行政区分はもう地図にはない。ただ、“旧区”という注釈とともに、薄く印刷されているにすぎない。
鞄の中には、鶴太郎から送られてきた「統合福祉構想2027」草案の写しが入っていた。
《西日本政府株式会社 社会設計局・起草草案(非公開)》
【要旨】
高齢化社会において持続可能な福祉国家のモデルを、西日本独自に確立する。以下の重点項目を提案する:
・完全無償医療(75歳以上対象)
・育児ベーシックインカム(第2子以降:月額9万円)
・生活支援AI配給網の設置(農業データ連動)
・国家健康通貨「KenKō」による個人の健康スコア制度導入
「理想を詰め込みすぎた社会設計書か…」
そう呟きながら、亀二郎は思った。太郎がこれを“東の新聞記者”に送ってきた意味は何か? 東日本の金融・成長至上主義とは対極の内容だ。
彼の視線は、福岡行きの車窓の先に向かう。
新しい国が待っている。だがそこには、懐かしい記憶と、いずれ選ばなければならない「立場」が横たわっていた。
第三章「太郎のいる国」
福岡駅の改札を抜けた瞬間、空気が違った。
東日本とは違う──湿度でもなく気温でもなく、“重さ”だ。
「歓迎します、西日本政府へ。」
自動改札を通った瞬間に、額縁付きの笑顔がスクリーンに映り、センサーが記者証を読み取って、再び亀二郎の正体を確認した。空港のような軽い入国管理。だがそこに宿るのは、“同じ日本人”に対する新たな距離感だった。
待ち合わせは「国際福祉設計庁」のロビー。旧九州大学病院の跡地に建てられたその建物は、白く、曲線を帯び、どこか祈るように空へ伸びていた。内部は木とガラスを多用した静謐な空間で、電子紙が浮遊しながら政策資料を表示している。
「……お前は変わらないな、ジロウ。」
低い声。振り返ると、そこにいたのはスーツ姿の男――西鶴太郎だった。
高校時代、廃校寸前の公立校で、一緒に弁論大会の準備をしていたあの頃と、顔つきはあまり変わらない。だが目の奥の光が違う。何百万人の福祉と経済のバランスを、毎晩天秤にかけている男の眼差しだった。
「大きくなったな、お前の国。」
「そっちこそ。経済成長率は俺たちの倍らしいじゃないか。」
握手の手は、互いに少しだけ迷い、そして強く握られた。
鶴太郎は無言で奥の会議室に案内した。テーブルの上には、紅茶と二枚の紙。
一枚は、西日本政府の次年度予算案案。もう一枚は、極秘の通信文だった。差出人は東日本政府・経済構造改革局――つまり、東亀が日頃取材している側の人間たちだった。
「……東が揺れてるのか?」
「お前のほうが早いと思ってたよ。」
太郎はそう言って、紙の端を指先で叩いた。
「こっちは“分割された後の先”を見てる。君たちは“まだ統一できるか”で足踏みしてる。」
沈黙の間、時間だけが同じリズムで進んでいた。
「太郎、お前は本気で“西日本”って国を信じてるのか?」
「信じてるさ。でもな、ジロウ。俺が信じてるのは『誰が正しいか』じゃない。『誰が、何を背負ってるか』なんだよ。」
外では、福岡の子どもたちが“KenKōポイント”のタブレットを片手に遊んでいた。健康スコアが高いと、お菓子と交換できるらしい。
その未来は、どこか幸福で、どこか、ひどく静かだった。
第四章「告発者の声」
「これが、“境界を越えた声”だ。」
太郎は、会議室の壁面ディスプレイに音声ファイルを投影した。デジタル変声処理された女性の声が流れる。抑えたトーン、だが言葉は鋭かった。
「……東日本政府・経済構造改革局 第2課は、AI雇用最適化計画の下、50歳以上の労働者データを“生産性スコア”で分類し、雇用切捨てリストを作成しています。対象者は約34万人。退職勧奨が実施され、統計上は“自然離職”として処理されている。」
静まり返る空間の中、亀二郎は身を乗り出した。
「この声……誰だ?」
「名前は伏せる。だが本人は、かつてお前の取材記事に励まされて、内部で闘っていた。俺にデータが届いたのは昨日だ。」
「西日本政府に持ち込んだということは、東にはもう信頼できる回路がない、そういうことか。」
「違う。“ジロウだけは、きっと本当を書く”って言ったんだ。」
そう言って太郎は、小さなメモリチップを机に置いた。
「全記録が入ってる。出所を辿れば、お前も危ないかもしれん。でも……この国の“今のやり方”を、どう思ってる?」
東亀はしばらく言葉を失った。
記者としての倫理が脈打つ。だが同時に、記者として生き残るには“触れてはいけないもの”も知っていた。
「太郎、これを報じたら……東日本政府は崩れるかもしれない。」
「それでも、書くのか? それとも、“分断の安全圏”に留まるのか?」
その瞬間、福岡の空が曇り、窓に雨が当たる音がした。
東と西を分ける境界は地図の線だけじゃない――そう思った。心のどこかで、まだ“ひとつだった国”を引きずっていた自分がいる。
太郎は立ち上がり、手を差し出した。
「これから先、お互い“自分の国”に帰る。でも、お前がどこを選ぶかで、“まだ日本という物語を終わらせたくない”奴らが、救われるかもしれん。」
その手は、かつて文化祭の前日に一緒に机を運んだ、あの手と同じだった。
東亀はメモリチップを手に取った。
その重みは、国家ひとつぶんより重かった。
第五章「記事にならない真実」
東京――
人工知能が最適化した通勤動線に従い、人々が静かにオフィス街を流れていく。スマート街路樹は花粉量を自動管理し、空気中の二酸化炭素濃度も“健康指数”に基づき調整されていた。
だが、東亀二郎の胸中は不安定だった。
彼は記者として所属する『東日本日報』の本社24階、調査報道部の会議室にいた。正面にいるのは編集長・羽田。かつて特ダネを共に抜いた仲だが、今は「株式会社国家」の報道ラインに沿った“調整役”だ。
「……で、これはどこから?」
亀二郎は、メモリチップを差し出す代わりに、書き起こした原稿を机に置いた。
【独自】東日本政府AI雇用改革の裏で、50歳以上の労働者に“数値化された死刑宣告”。
政府部内資料と内部告発音声によると――
羽田の目が一瞬だけ動いた。すぐに表情を消す。
「これは……載せられないな。」
「読んでないだろう。」
「載せられないんだよ、ジロウ。君はもうわかってるはずだ。政府の信用毀損は“協定違反”だ。報道各社は“国家安定優先原則”に同意してる。」
「協定って、政府とメディアが結んだ“自主規制”だろ?」
「それでも、書けることと、書けないことがある。君の原稿は“境界”を越えてる。」
しばし沈黙が落ちる。
「なぁジロウ。こんなもの載せて、誰が得するんだ? 国民か? 君か? それとも……あの西の連中か?」
「違う。ただ、“書くしかない”だけだ。」
羽田はふぅとため息をつき、原稿を持ち上げて、静かに紙裂き機に差し込もうとした。
その瞬間、亀二郎は手を伸ばした。
「その代わり、俺が辞める。記者証は置いていく。」
「……どこに出す気だ。西か? YouPressか? 独立系のネットメディアか? 検閲済みじゃ載らんぞ。」
「わからない。でも、黙ってるよりはいい。」
鞄を手に立ち上がる。その動きは、あまりに静かだった。まるで、何かを壊す音を聞かせないようにするように。
「ジロウ、最後に一つだけ忠告する。お前は“敵”を作りすぎた。国家の形が変わった今、“書く”という行為は、もう無邪気なものじゃない。」
「だからこそ、“書くこと”の意味があるんだよ。」
そう言って、亀二郎は編集部を出た。
廊下の先には、彼が13年間書き続けた“東日本”という国の、もう一つの顔があった。
スマホが震えた。差出人不明の短いメッセージ。
「会いたい。私はあなたの原稿の、次の証人です。」
画面の地図には、名古屋。国境都市だった。
第六章「境界の女」
名古屋駅の中央改札――
そこは、東日本政府と西日本政府の緩衝地帯。地下に設けられた「越境連絡通路」は、かつての日本の“中央”という名にふさわしい、中立地帯とされた。
国旗もない。両政府の広報端末が互いに音を出さないよう調整され、静かに情報を流し合っていた。
亀二郎は、駅構内の古い喫茶店「パーラー白陽」に入った。灰皿が残されたままの数少ない店。西からの空気と、東の残滓が、入り混じっているような場所。
そして、そこにいた。
白いシャツの袖をまくった女が、レモンスカッシュに指をかけていた。顔は伏せているが、視線だけは鋭く、亀二郎を射抜いた。
「……君が“東の記者”か。」
彼女の声には、震えも芝居もなかった。
「名前は?」
「名前は捨てた。でも、政府記録では“松永和葉”。私は東日本政府・構造最適化局第4課にいた。」
「“いた”? もう離れたのか?」
「私の存在は削除された。“能力評価スコア”で、私は無効になったの。」
和葉は、そう言って小さな端末を鞄から取り出した。
そこには、東日本政府の内部文書が並んでいた。
“生産性加算制度”
“市民貢献ポイントの昇格基準”
“予備対象人口ファイルVer.3.2”
「これは……“選別”の名簿か?」
「そう。AIが数値で人間を分類し、自治体が『公共サービス供給リスト』から外す対象を選定する。水道・電気・救急搬送までね。公式には“支援対象外”と呼ぶ。」
亀二郎は声を失った。
これは、“切り捨て”ではない。
国家が人間を「投資に値するか」で線引きし始めた証拠だった。
「なぜ、今になって、俺に?」
「理由は一つ。“太郎が信じた人間”が、あなたしかいなかった。」
カップの底に、名古屋の光が反射していた。国境の都市。
真ん中に立つ者には、どちらの正義も届かない。
そのときだった。
喫茶店のドアが、静かに開いた。
スーツ姿の男が二人。名乗りもしない。だが、その視線に“官”の匂いがした。
和葉が低く言った。
「時間切れよ。ここを出たら、あなたも、境界の人になる。」
「それでいい。俺はずっと――真ん中で書いてきた。」
彼は手に端末を受け取り、レジの横をすり抜けて店を出た。
その背後で、二人の男がゆっくりと追いかける気配を感じながら。
“書く”ということが、境界を越えることなら。
彼はもう、どの国にも帰れないのかもしれなかった。
第七章「旧友からの呼び出し」
夜の東京、六本木ヒルズタワー高層階。
その一室に、東日本政府・政策情報監理庁の“非公式会議室”がある。招待されるのは、官報に名前が載らない人間たち。
東亀二郎がそこに呼び出されたとき、彼はすでに覚悟を決めていた。
迎えに来たのは、黒服の女ではなく、かつての同僚だった。
「……久しぶりだな。まだ“ジャーナリズム”ってやつ、信じてるのか?」
喋ったのは、川淵圭介。東日本日報で政治部エースだったが、三年前に新聞社を辞め、政府側に“転職”した男だ。今では「政府説明戦略局 副参事官」という名目の、情報統制と世論誘導の実務責任者。
「お前が呼んだのか。」
「そうだ。ジロウ、お前に失望はしていない。ただ……警告には来た。」
川淵は、机の上に出力されたレポートを置いた。
《東亀二郎・越境行動ログ》《西日本政府職員との接触一覧》《極秘メモリチップの複製報告》
「……監視してたのか。」
「お前が記者を名乗る限り、政府は“読者の安全”のために動く。それだけのことだ。」
「俺は市民を守るために書いてる。政府の“正しさ”じゃなく、事実を。」
「事実だけじゃ、国家は維持できない。“信頼”っていう名の幻想がなければ、会社は潰れる。国家も同じだ。わかるな? 株式会社政府の本質は“信用の構築”なんだよ。」
沈黙。空調の音だけが耳に触れる。
「お前に選択肢をやる。明日、記者会見がある。例の西日本の“福祉バラマキ計画”を、破綻前提の過剰政策として叩く会見だ。東日本日報はそれを一面で取り上げる。そこに、“お前の署名記事”を入れろ。」
「誘いか、罠か?」
「提案だ。お前が線を引けば、国は許す。過去の越境も、データの持ち出しも、全て“調査の一環”として処理してやる。」
「……書けば、“書かせてもらえる”。書かなければ、“書くことを奪われる”。そういうことか。」
「どちらを選んでも、国は回る。だが、お前がどう動くかで、“誰か一人”の命運は変わるかもしれない。」
川淵は立ち上がり、背を向けた。
「忠告はした。あとは、君の信じる自由に任せる。」
夜のガラス窓に、東京の光が映る。
その下には、数字で分類され始めた人々が生きている。
東亀二郎は、原稿の第一行目を書き始めた。
「東日本政府株式会社の未来が、いま分岐している。」
彼の視線の先には、今も“西の友”がいた。
第八章「公開と沈黙の境界線」
午後二時。
東日本政府・中央広報庁プレスルーム。
報道各社のカメラが整列し、東亀二郎はその端、特設席に座っていた。
会見テーマは「西日本政府・福祉過剰政策に対する見解」――表向きは経済分析報告だが、裏では“報道秩序の再構築”と呼ばれていた。
壇上には政策説明官、経済予測局長、そして情報戦略補佐官――川淵圭介の名もあった。
司会の声が響く。
「なお本日、本件に関連して、特別コメンテーターとして『東日本日報』より東亀記者が来られています。」
一瞬、会場の視線が集まった。
東亀二郎は立ち上がり、壇上に歩いた。
原稿はポケットにある。あの告発の記録とともに、二通りの文章を用意していた。
一つは、政府に従い、西日本を批判する“協調原稿”。
もう一つは、AI雇用選別制度の存在と内部告発の詳細を暴露する“実名告発原稿”。
彼は、一枚の紙だけを取り出した。
「皆さん、はじめまして。私が今日ここにいる理由は、“報道”がまだ存在していることを証明するためです。」
空気が少し変わった。川淵の視線が鋭くなる。
「私は先週、東西の境界を越え、名古屋で“市民としての声”を受け取りました。それは、数字に置き換えられた人間たちの苦しみでした。」
ざわつきが広がる。
「本日、私が提出する原稿は、政府の見解ではありません。国民の記憶と未来のために、今、伝えなければならない“事実”です。」
そして、彼はポケットから両方の原稿を取り出した。
一瞬、川淵の顔がわずかに動く。
「これが、“国家に奉仕する原稿”。そして、こちらが“市民に奉仕する原稿”です。」
彼は後者を、記者会見の共有フォルダに投げ込んだ。
瞬間、政府職員が一斉に端末を操作し始めた。データ解析、回収、遮断。
だが、もう遅い。
会場後方で、ある記者が呟いた。
「もう、外に流れてるな。独立プレスがキャッチした。」
川淵は口元だけで笑った。
「やはり、お前は“書く”ほうを選んだか。」
東亀は小さく頷いた。
「書かなかったら、もう誰も俺の言葉を信じない。」
その時、会場のドアが静かに開いた。
スーツ姿の男が立っていた。西鶴太郎。
西日本政府の制服を着ず、ただの男の顔で、黙って東亀を見ていた。
二人の目が合った。
「これで、ようやく境界に線が引ける。」
「いや、ジロウ。それは“越えられるもの”だったと、君が証明したんだ。」
第九章「言葉のあとに残るもの」
東日本政府内ネットワーク上に、一本の記事が拡散していた。
「“私は削除されました”──AI雇用最適化制度の影に隠された、34万人の声なきリスト」
公開から3時間で、閲覧数は260万を超えた。
政府が運営するSNSでは、すでに「#削除された市民」「#スコアでは測れない」がトレンド上位に並ぶ。
それは、ただの“内部告発”ではなかった。
人々が薄々感じていた違和感に、名前が与えられた瞬間だった。
「うちの父親も、三月末に退職させられたんです。理由は説明されなかったけど、“数値が足りなかった”って。あの記事で、全部つながった気がする。」
「母が病院からの搬送を断られたのも、“支援対象外”だからかもしれない……。」
コメント欄は、生の声で埋まり始めた。
政府の広報官は、当日夕方に緊急会見を開いた。
「本件に関する報道は“事実を一部誇張した憶測”に基づいており、正確性に疑問がある。AI制度の導入は“市民の幸福最大化”を目的としており、任意の差別や選別は一切行っていない。」
だが、その“抑えた否定”は逆に、事実の存在を印象づけた。
記者クラブでは静かな動きが始まっていた。
“東亀二郎”という名前が、抹消対象か、それとも“国家を変える者”か、判断がつかないまま。
一方、東亀は小さなビジネスホテルの一室にいた。
部屋にはテレビもなく、窓の外は霞がかった東京湾。
誰からの電話も受けず、ただ、ノートPCを膝に抱えていた。
背後から声がした。
「ようやく、お前らしい記事だったな。」
西鶴太郎だった。
私服のまま、ジャケットの袖をまくって立っていた。
「何人、動いた?」
「市民団体が一つ。医師会が二つ。“旧公務員会”が署名運動を始めた。たった三つだが……それでも、大きな一歩だ。」
「……あんな小さな記事で、世界が変わると思ったわけじゃない。」
「でも、あの記事の“文末”が違ったら、誰も立ち上がらなかった。」
亀二郎は画面を閉じ、太郎に向き直った。
「次は、お前の番だろ。西日本は、もう“理想”だけじゃ回らないはずだ。」
太郎は口角を上げた。
「分かってる。お互い、“自分の国”の中でやれることをやる。でも……俺たちはもう、一度“真ん中”で会った人間だ。二つの国を、同じ目で見られる数少ない人間だ。」
「だからこそ、次に会うときは――」
「“同じ国の人間”じゃないだろうな。」
しばしの沈黙。
だが、二人は笑った。
まるで、まだ日本という国が“本当に一つだった頃”を思い出すかのように。
夜の窓の向こうで、東京タワーがいつもより青く光っていた。
最終章「境界の朝」
午前5時。
名古屋、旧・中村区、国境線が引かれてから再開発の止まった古い住宅街。
その一角にある小さな歩道橋の上で、東亀二郎は立っていた。
東京でも福岡でもない場所。
東でも西でもない場所。
境界の上にある、ただのアスファルト。
手には、朝刊が一部。
『東日本日報』ではなかった。
発行元は、新設された「非所属報道協会」。
そして、見出しはこうだった。
「国家の尺度では測れない人間を、私たちは知っている」
東亀二郎 記
もう肩書きはない。記者証もない。
だが記事は、生きていた。
誰にも許可を取らず、誰にも止められず、それでも読む者の胸に届くように。
背後で、足音がした。
「君らしいな。橋の上を選ぶとは。」
和葉だった。
西で声を託し、名を消された彼女。今は境界都市の市民支援センターで働いていた。
「記事、読んだよ。泣いた。」
「……泣けるような話じゃないだろ。何も変わっちゃいない。」
「でも、何も始まらなかった頃よりはマシよ。」
二人は並んで歩道橋の端まで歩く。
境界線に塗られた白いペイントが、朝焼けににじんで見えた。
「東でも西でもない市民として、何をするか。これからは、その時間だと思う。」
「境界の上で、生きるってことか。」
「そう。誰にも属さず、でも、誰も否定しない場所で。」
亀二郎は頷いた。
ふと、彼の端末が鳴った。
差出人不明のメッセージ。たった一文。
「“第三の案”が必要だ。話せる場所をつくろう。―T」
“T”――
それはきっと、西鶴太郎のイニシャル。
もう一つの政府の中枢にいる彼が、今、何を始めようとしているのか。
亀二郎は空を見上げた。
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